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OPIを授業に生かす 第18回

<まとめ>

OPIの思想とその可能性

牧野 成一

  いよいよこの連載も、今回で最終回です。今月は「まとめ」として、OPIの思想とはどういうものなのか、少し距離をおいた視点から総括してみます。さらに、そこから、今後のOPIの可能性を探ります。

 

 OPIの可能性を探るにはOPIの背後の思想を考えなければならない。本誌ではOPIのさまざまな理論的・実際的な側面が論じられてきた。このOPIシリーズの最終回では、一歩離れてOPIを哲学してみよう。

1. 言語運用能力は言語を越えて普遍的に評価できるという思想

 この思想の根底には人間言語の意味構造の普遍性の思想がある。この思想は現代の言語学−特にChomskyの言語学−の基本的な仮説で、その証明は進行しつつある。ただ、言語の意味構造に普遍性があるということがどうして言語運用能力の評価の普遍性に必要なのであろうか。

 同じ材料を使って料理の腕を競うテレビ番組「料理の鉄人」を考えるとわかるように、食材がほとんど共通だからこそ、料理の技能の評価が可能になる。つまり、どのように味覚、歯ざわり、舌ざわりの洗練された味を創るか、その技の基準が存在するにちがいない。もし2人の料理人が別々の素材を選べば優劣は大変つけにくくなる。

 言語の場合、その構造の単位と単位の結合の仕方、なかんずく深い意味構造のパラダイムが共通しているから、それとの関係で運用能力の一般的基準をたてて、それを使って能力を評価できる。

 OPIのproficiency(達成度)のレベルの、超級、上級、中級、初級を形式的に定義づけるとき、超級は複段落、上級は単段落、中級は文、初級は語句というように、言語の普遍的な形式が各レベルを特徴づける基礎的な単位になっているが、言語学の構造主義時代に見たように、それらの単位の定義づけは非常に難しい。

 OPIによる能力の査定をした人ならだれでも経験しているように、特に大きな問題は、上級以上に特徴的な「段落」の定義である。一般的には、段落は「1つのまとまりのあるテーマを表現していて、形の上では、接続詞、指示詞、代名詞、省略、反復などによって統括された複数の文の集合体だ」と考えられているが、OPIのように話しことばの段落は、どの程度の統括度があればそれを母語話者なみの段落と言えるのかが大きな問題になってくる。今ここでは段落論を展開するわけにはいかないので、話を先に進めよう。

 各言語での形は別として、人間の言語で、単語、文、文の集合体としての段落のない言語はないのであるから、OPIが普遍的な言語構造にもとづいて言語運用能力を判定できる、とする思想には間違いなかろう。しかしながら、日英語に例をとると、山田(1997)が指摘しているような英語のSpeaker-Talk(話し手中心の話し方)と日本語のListener-Talk(聞き手中心の話し方)のような話し方のスタイルの違いを、過小評価することはできないだろう。OPIの判定基準自体が印欧語、それも英語中心の論理で出来上がっていることはよく指摘されている。徹底的にSpeaker-Talkをしたほうが有利なのだから、日本人が、例えば、英語のOPIを受ける場合は、本来のコミュニケーションのスタイルも変えなければならないのだから、特に自分の意見を的確に表現する点で不利になってくるはずだ。ただし、日本人の発想がアメリカ化の一途をたどってきている現在、このようなギャップは21世紀の後半あたりには解消し、問題にならなくなるのかもしれない。

2. 言語はコミュニケーションの手段であるという言語道具観の思想

 言語はコミュニケーションの手段ではないという思想はあり得ないが、徹底して言語を道具として捉えようとするのはSavignon(1972)とかHymes(1972)によって代表されるように、70年代から台頭してきたコミュニカティブアプローチの思想である。これをさらに突き詰めていくと、その基礎としてMalinowski(1923,1935)とかFirth(1951)といった、チェコ学派に代表される機能論的な言語観が現れてくる。Makino(1982)は日本語の文法を機能論的に見ようとしたものであるが、言語道具観と機能論は基軸を共有しているように思う。言語道具観に焦点を合わせていない言語学はChomskyに代表されるformal linguisticsである。言語の分析の目的を人間の脳のメカニズムの解明においているところが言語道具観とは決定的にちがう。言語道具観はきわだって実用的であり、一見浅薄に思われるかもしれない。事実、この実用本位性のためにアカデミアでは蔑視の対象にもなってきた。たしかに、初級とか中級のようなサバイバルレベルはあまりにも実用中心ではあるが、超級までいけば話し手は言語を使って高度に抽象的かつ専門的な話ができるのである。初級、中級のようなレベルは学習者のすべてが通過しなければならない実用中心のレベルである。道具としての言語をおそるおそる使ってみるこのような段階が、やがては道具としての言語を駆使し、言語に個性を吹き込むことさえできる超級の段階になっていく。

3. 脱文化の思想

 先述のコミュニケーションスタイルの違いなどは文化的なことだから除外するという思想である。しかし、厳密に言うとListener-Talkのほうが除外されたのであって、Speaker-Talkのほうは温存されているのだから、完全な脱文化とは言えない。むしろ欧米中心主義の文化的偏向があって、およそポストモダンの思想に反するのではないかと思われる。文化はある特定の人間の集団の生活、行動、思考のスタイルの集積だから、文化には言語のような普遍性がないと考える人が多いだろう。筆者(1996)は、ウチとソトという空間認識が言語と文化にどう映し出されているかを調べたことがあるが、それによると、人間の文化にはもちろん特殊性もあるが、同時に普遍性つまり人間の文化に共通な事項もあるというのが結論である。例えば、「甘え」というウチの人間関係で起きる共感の心理は日本の文化に独特だと考えがちだが、実は子が親(特に母親)に示す「甘え」は人間の文化に一般的な現象である。違いは、日本ではほかの国に比べて相対的にそれが顕現する場が広範で、その時間が長いのにすぎない。甘えの行動は動物にも観察されるのだから、そこには生物学的な基礎さえあると考えられる。ある文化にはあるのにほかの文化にはないというのは、具象的な文化、例えば食べ物などにはあるが、もっと抽象的な文化になると、文化差は程度の差と言っていいのではないかと思う。

 さきほどのSpeaker-TalkとListener-Talkに話をもどすと、この2つを対蹠的な文化のカテゴリーとして捉えるのはあまりにも単純な見方であると言いたい。ウチとソトの関係で見ていくと、日本人の話し方がListener-Talkになるのはソトの空間であって、日本人でもウチの空間では強烈に自己中心のSpeaker-Talkをしているのではないだろうか。逆にアメリカ人もソトの空間ではかなり他人中心のListener-Talkをしているのではないだろうか。ということは、超級の話者はウチ・ソトの場面によって2つのコミュニケーションスタイルが使い分けられなくてはいけないということだろう。そう考えることによって、欧米のスタイルへの偏向性を中和することができる。しかし、そうするためには、特に超級の基準は書きかえなければなるまい。

 さらには、OPIの基準が話しことばの音だけを中心に据えて、話しことばに付着しているノンバーバルで視覚的なパラ言語現象、例えば、身振り、相づち、姿勢、座り方などを基準に入れていないことも、日本のように聴覚的な伝達と視覚的な伝達が切り離しにくい文化では、これでいいのだろうかという疑問が出てくる。よく話しことばのグローバルな評価ということが言われるが、グローバルな評価とはまさに聴覚的な証拠と視覚的な証拠にもとづいたものでなければならないと思う。

4. 反デジタル化の思想

 言語能力の総体は点数化できないという思想である。この思想はOPIの要の思想で、これに関しては筆者は批判するところは特にない。外国語教育、あるいは教育一般にとって最も不幸なことは、学習の結果をすべてデジタル化するということではないだろうか。日本の初等・中等教育の教育効果がすべて偏差値に還元されているのは、日本の教育の大きな問題であろう。まさにデジタルな学問、例えば、数学とか物理とかコンピューターサイエンスならいざ知らず、話す能力のように本質的にデジタル的に割り切れない技能を扱う領域では、その教育効果を数字化するのは、どだい無理な話であろう。本誌のシリーズの読者はご存じのように、OPIは言語能力を初級、中級、上級、超級というように大きくレベル分けをして、さらに、初級、中級と上級は下、中、上と3つのレベルに細区分している。超級は3つのレベルに細分化する必要はないという考えで今のところ1つのレベルしかないが、すでにその入り口のレベルなどと言っているので、近い将来は3つのレベルに落ち着くのではないかと思う。それはともかくとして、肝心な点は話す能力を幅で捉えていて、デジタル化していないという点である。レベルとレベルの間には顕著な断絶はなく、連続性があるという思想である。中級の中とか上級の中は、典型的な中級であり上級である。中級の下と上級の下は、それぞれ1つ下のレベルの初級と中級に近い性格を持っているし、中級の上と上級の上は、それぞれ上のレベルの上級と超級に近い性格を持っていると考える。アチーブメントテストのデジタル性と比べるとOPIのようなブロフィシェンシーテストの性格が浮き彫りにされる。言語にはデジタルに測れる部分もたしかにあるので、その部分をアチーブメントテストのようにすることは必要だと思うが、その部分もコンテクスト化してできるだけブロフィシェンシーテストに近付けることにより、足して2で割ったようなブロチーブメンテストというものが15年ぐらい前から出てきている。

5. 個人的事情無視のきびしい思想

 脱文化の思想と近似しているが、OPIでは受験者の性格とか個人的状況とかはまったく無視して、発話されるスピーチサンプルの総合的機能性、タスク性だけに着眼して能力のレベルを決める。受験時の受験者の状況をすべて捨て去り、スピーチサンプルだけに頼るわけである。例えば、ひどく寡黙な人がOPIを受けて文でしか答えなかった場合、当然、その人は中級レベルと判定されるが、もし同じ形式で母語のテストをしても同じように文中心の発話だったら、その人がどんなに知的な発話をしていても、中級だと判定される。一般的には、詳しい説明とか裏付けのある意見の開陳には段落を使うのが普通であるが、例外もあるのではないだろうか。凝縮した内容を俳句のような短い文形式で表現する可能性を拒否しているのではないだろうか。母語で訥弁かどうかを調べずに外国語のOPIでの発話だけでレベルを決めてもいいのだろうか。あるいは、たまに出てくるケースだが、ロールプレイが恥ずかしくてできないという内気な受験者や、あまりにも知的でロールプレイなんて幼稚で馬鹿らしいという受験者が出てくる。しかしロールプレイは、中級の上から上級までのどこかと考えられる受験者には、そのタスク能力を調べるために必ず課さなければならないものなのである。ロールプレイができないとなると、決定的な判定ができないから、そのOPIは厳密には無効になってしまう。このような受験者の個人的事情とOPIの方式とのそりが合わない場合にも、判定不能だとして切り捨てるのではなく、それをうまく会話モードの部分で自然な解決をするとか、母語の話す技能を観察するといったことが必要であろう。

6. 2重役割(dual role)の思想

 OPIでは、ほかのテストと違って、テスターはテスターであるとともによき会話者でなければならないという思想がある。自分もコンテクストのある会話に入り込みながら、テストを行う参加者兼観察者(participant observation)の立場をとらなければならない。日本語の教師という態度を一切捨て切って、「普通の」日本人として受験者とできるだけ自然に会話し、能力の下限を決めるレベルチェック(level check)と上限を決める突き上げ(probe)をしながらテストをしていく。会話者と判定者という2つの役割はかなり矛盾した2つの役割なのであって、OPIを極度に難しくしている。例えば、close testを考えるとわかるように、いわゆるテストでは、問題を出すテスターと受験者の間でテスト中に相互作用(interaction)はない。OPIでは、テストの内容が受験者にも、そして往々にしてテスターにも、客体化されていない。教師の役割を捨てて、普通の日本語会話者になり、普通の日本人の反応で対応しなければならないが、ただの会話者に終始すれぱ、当然、サンプルは判定不可能なサンプルになってしまうので、必ず突き上げをして能力の上限を決めなければならない。突き上げ不足のOPIは判定不能になり、失敗作になってし、。テスターは受験者に合わせながら、共感を持ってOPIを遂行するのであるが、これほど主観を投入するテストが果たして客観的なテストと言えるかどうかは十分間題になるし、現にBackman(1987)などによって強く批判された点である。ただ、「学習者はテストによってつくられる」という筆者の格言(?)が正しいとすると、OPIを受ける学生、あるいは受けさせられる学生は、たしかに実用的・機能的でグローバルな会話能力を伸ばす努力をするようだ。

 筆者はOPIのワークショップを1991年にアルクを通して日本に導入し、毎年2回、そのトレーナーを務めてきた。少し距離をおいてOPIの裏を観察してみると、少なくとも6つの思想が姿を現してきた。その思想はOPIの肯定的・否定的な可能性を含んでいる。OPIを完成品として捉えるのではなく、流動的に進化していくものとして捉えることを強くすすめたい。


【参考文献】
Bachman,Lyle(1987) "Problems in examining the validity of the ACTFL Oral Proficiency Interview". In Proceedings of the symposium on the education of foreign language proficiency,(ed. by A.Valdman), Indiana University, Committee for Research and Development in Language Inter-action, Bloomington 29-46
Firth,J.R.(1951) Papers in Linguistics.London:Oxford University Press
Hymes,D.H.(l972) "On Communicative Competence". In Sociolinguistics(eds.J.B.Pride&J.Holmes,269-93,Harmondsworth:Penguin
Malinowski,Bronislaw(1923) "The Problem of meaning in the primitive". In Supplement 1. The Meaning of Meaning.eds.C.K.Ogden & I.A.Richards.London:Kegan Paul
Makino,Seiichi(1982) "Japanese Grammar and Functional Grammar". In Studies in Japanese Linguistics(ed.by M.Shibatani),Special issue of Lingua57:2-4,125-73.
牧野成一(1991)「ACTFLの外国語能力基準およびそれに基づく会話能力テストの理念と問題」国際交流基金『世界の日本語教育』No.1,5-22.
牧野成一(1996)『ウチとソトの言語文化学』(アルク)
Savignon,Sandra(l972) Communicative Competence: an Experiment in Foreign language Teaching. Philadelphia: Center for Curriculum Development.
Yamada,Haru(1997) Different Games Different Rules - Why Americans and Japanese Misunderstand Each Other,NY/Oxford,Oxford University Press



〔まきの せいいち〕−プリンストン大学東洋学部教授